京都大原 寂光院TOP → 宝物殿(鳳智松殿)の御案内

    寂光院の宝物殿「鳳智松殿」は、平成16年秋に寂光院の復興を記念して建立されました。寂光院にご参詣の際には、平家物語ゆかりの大原御幸と建礼門院の世界を是非ご覧下さい。観覧は無料です。


展示物一例
 ・建礼門院落髪名号
   「南無阿弥陀仏」
 ・安徳天皇像
 ・平家琵琶
 ・平家物語写本
 ・大原御幸絵巻

 
  第1部 大原草生の里

大原草生の地に寂光院が建立されたのは、京都に平安京が出来る以前のこと、聖徳太子が父用明天皇の菩提を弔うためであったと伝える。
平安時代になって大原丘陵一帯には、朝廷の馬を飼育する大原牧ができた。その後、都に炭を貢納するようになり、別名「炭窯の里」とも称されるようになった。


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寂光院へのお問合せは
TEL.075-744-3341

〒601-1248
京都市左京区大原草生町676

 
  第2部 建礼門院と大原御幸

 『平家物語』は源平の騒乱における多くの英雄と、そして敗者を描いている。闘う男たちの陰には、多くの女人たちがいた。悲劇のヒロイン建礼門院徳子もそのひとりである。権勢を誇った平清盛の二女に生まれ、高倉天皇の中宮となって御子安徳天皇を生んだ。絶頂の日々もつかの間、源平の争乱が勃発するや、五歳の安徳天皇を奉じて平家一門とともに西国に逃れ、ついに文治元年(1185)三月長門壇ノ浦で平家軍は義経軍に敗れた。女院は安徳天皇とともに入水したが、一人助けられ京都に送還された。
 同年5月、建礼門院は東山で落飾、法名を真如覚と名乗った。秋も押しせまった9月末のこと、憂きことの多い都を遠く離れた洛北の地寂光院に閑居し、昼夜念仏を唱えて、夫高倉天皇とわが子安徳天皇の菩提を弔う日々を送った。
 文治2年(1186)の春、大原寂光院に閑居する建礼門院のもとを後白河法皇が訪れた話が、『平家物語』の最終「潅頂の巻」である。突然の法皇の御幸に、逢うことを拒んだ女院であったが、阿波内侍に諭され涙ながらに対面する。先帝や御子、平家一門を弔いながらの今の苦境は後世菩提のための喜びであると述べ、六道になぞらえて半生を語る女院に、法皇や供者も涙するばかりであった。
 建保元年(1213)(一説建久2年)2月中旬のころ、女院はこの地で往生の時を迎え、その生涯を閉じた。
 
  第3部 平家物語

祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色 盛者必衰のことわりをあらわす
驕れる人も久しからず ただ春の夜の夢の如し

 源氏軍と戦う平清盛一門の興隆と滅亡の歴史を、編年体で描いた軍記物語として名高い。諸行無常・盛者必衰・因果応報など仏教思想に基づく無常観を背景に、平家の絶頂から壇ノ浦に滅びるまで約30年間を対象にしている。鎌倉時代から室町時代にかけて盲目の琵琶法師による語りによって広く民間に流布したため、多くの異本が存在する。
 寂光院に伝わる『平家物語』は覚一本と呼ばれる流布本の一種で、覚一検校が応安4年(1371)に、潅頂の巻として「大原御幸」を中心に据えてその前後に「女院出家」「大原入」「六道の沙汰」「女院死去」といった建礼門院徳子の晩年の話を前後に配して一巻となし、秘曲として伝授されたものである。江戸時代以降も謡曲・歌舞伎・文楽など、わが国を代表する伝統芸能に多くの影響を与えた。

 
  第4部 受難と再興

 平成12年5月9日未明、寂光院は不慮の火災により、桃山時代に建立された三間四面の木_葺本堂は灰燼に帰した。堂内には鎌倉時代に制作された本尊地蔵菩薩立像と小地蔵尊像(共に重要文化財)、および建礼門院像・阿波内侍像が安置されていたが焼けてしまった。ただ、本尊地蔵菩薩像の表面は大きく焼損したが、幸いに像内に籠められていた願文・経文・小地蔵尊を始めとする納入品の数々は無事であった。
 火災直後、当時の住職小松智光をはじめ関係者一同は憔悴の感が深かった。しばらくして、小松住職の「本堂・本尊ともに昔のままに再建したい」という強い願いのもとに、本堂は宮大工細川豊一を棟梁として、本尊は美術院の前所長小野寺久幸を中心に美術院により、また両脇の建礼門院・阿波内侍像は平安仏所江里康慧・佐代子夫妻によって再建され、平成17年6月2日に本堂落慶ならびに本尊開眼供養が厳かに催行された。幸いに焼損した旧本尊地蔵菩薩立像は重要文化財指定を解除されることなく、今は境内の奥深く二ある収蔵庫に静かに安置されている。

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